甲南大学硬式野球部のあゆみ
Ⅰ 創部・昭和30年代
甲南大学硬式野球部(以下「野球部」と記す)は、昭和28年に藤井 稔(昭31・甲南)、濱田邦夫(昭32・甲南)、吉見敏宏(昭32・甲南)らによって同好会として発足し、昭和30年に体育会の部に昇格した。初代部長に文理学部の吉松二郎が就任し、主将に藤井が選ばれ、縁あって元近鉄パールスの芳村嵓夫の指導を受けた。
昭和30年、旧制甲南高校OBの安達成一(昭15)、芝川又彦(昭16)らの尽力によって、甲南、大阪商業、神戸商船の3大学からなる阪神大学野球連盟(以下「連盟」と記す)が設立された。木下 丹甲南大学学生部長(当時)が初代会長に迎えられ、第1回のリーグ戦は、6月3日に阪急西宮球場で開幕し、甲南大学が大阪商業大学との優勝決定戦に勝利して、初優勝した。この試合の勝利投手の増田芳之(昭32・県芦屋)は、昭和27年夏の高校野球選手権大会で優勝した兵庫県立芦屋高校のメンバーであった。井間啓之(昭32・甲陽)、濱田も優勝に貢献した。井間は強打の内野手、濱田は強打の外野手として活躍した。濱田は卒業後の昭和36年、朝日新聞社の支局に勤務の折、兵庫県立柏原高校の監督として、同校を選抜高校野球大会に出場させるなど野球知識に長け、卒業後も甲南の野球に有形無形の影響を与えた。
昭和32年、OB相互の親睦及び野球部の強化と発展に寄与することを目的として、甲南大学硬式野球部OB会「かぶと会」(以下「かぶと会」と記す)が会員17名で発足した。
昭和33年春季、部長が吉松から経済学部の中村忠一に交替した。
昭和34年秋季の3回目の優勝に、田中博人(昭35・県兵庫)は主将として、高橋輝夫(昭35・甲南)、今枝 健(昭35・甲南)、和田 功(昭38・甲南)らと共に貢献した。田中は昭和33年の部員減少時には、持ち前の行動力で部員の確保に奔走し、部の維持を図り、卒業後は勤務の都合で関東
に転居するまでの間、監督及び連盟代表理事・関西大学野球連合(以下「連合」と記す)の理事として創設期の連盟・連合の中心となって活躍した。また、平成12年秋季から再び監督に就任し、この時期
に低迷していた野球部の建て直しに尽力した。今枝はシュートの鋭い好投手として、和田はこのシーズ
ンと昭和35年秋のシーズンの2回ノーヒット・ノーランを達成した速球投手として記憶に残る。
昭和35年春季、大学に法学部及び経営学部が増設された。これにより野球部に十数名の新入生の入部があり、部は一気に盛り上がった。豊田圭二(昭36・堀川)は堅実な内野手で、主将として統率力があり、昭和34年秋季に続く連覇の牽引力となった。当時では稀な甲子園経験者で、第28回選抜高校野球大会に出場し、甲子園でも活躍した。
昭和36年春季、前年から学生監督を務めていた藤田範雄(昭36・紫野)が、卒業と同時に大学の事務局に奉職し、事実上の監督に就任した。藤田は以後、副部長、連盟理事、OB会役員を務め何らかの形で野球部に関わった。
昭和37年、関西の大学野球界に、関西六大学野球連盟の下部に阪神、近畿及び京滋の3連盟が属する『関西大学野球連合』が設立され、関西六大学リーグの最下位校と3大学リーグの代表校による首位
決定戦の首位校との入替戦制が導入された。
昭和38年春季は、8戦全勝で5回目の優勝を果たした。その原動力となったのは、このシーズン捕手として活躍し、最優秀選手賞を獲得した稲森正宏(昭39・泉尾)、松田 甫(昭39・甲南)、小西謙太郎(昭39・甲南)、白井健三(昭39・高槻)、須田晃史(昭40・追手門)らであった。松田は長打力のある内野手、小西は昭和35年秋季リーグ戦で首位打者を獲得した巧打、好守の内野手で、白井は鋭い変化球を投げる投手として印象に残る。ここで特筆すべきは、須田が対大阪電気通信大学1回戦(昭38.4.30)で、連盟初の完全試合を達成(投球数73、奪三振4、内野ゴロ13、内野フライ8、外野フライ2)し、優勝に向かってチームに弾みをつけたことである。須田はこのシーズン絶好調で、7月に行われた3大学リーグ首位決定戦でも龍谷、神戸大学相手に4連投したが、惜しくも決勝戦で敗れた。甲南学園の創始者である平生釟三郎の孫にあたる平生眞二(昭37・甲南)、平生誠三(昭40・甲南)の兄弟が活躍したのもこの頃である。
昭和39年、経済学部の森 恒夫が部長に就任した。森はその後、昭和60年に第9代甲南大学長に就任した。この年から連盟は、リーグ戦に3回戦・勝点制を採用した。春季の6回目の優勝には、小田正隆(昭42・報徳)が貢献した。小田は入学直後からレギュラーとして出場した攻守走三拍子揃った内野手で、卒業後は社会人の「全大丸」でプレーした。3大学リーグ首位決定戦は、シーズン終盤の優勝決定後の大阪電気通信大学2回戦を首位決定戦の調整のため、故意に落としたことから生じた竹村監督と選手との不協和音もあり、京都、神戸大学に連敗した。
同年、「かぶと会」会長に広瀬憘一(昭31・甲南)が選ばれた。その後「かぶと会」は、昭和53年に甲南学園野球部OB会[旧制中学・高校、新制高校:会長塩野孝太郎(旧高・昭6)]の組織の中に吸収(「かぶと会」の名称は廃止)されたが、組織的に不完全であったため、若干の活動をしたに止まり、昭和59年に再編されるまでの間、本格的なOB会活動をするには至らなかった。
Ⅱ 昭和時代最後の優勝・昭和40年代
昭和40年1月、連盟は創立10周年を記念して当時まだ米国の占領下にあった沖縄へ選抜チームを派遣した。甲南大学から泉 博志(昭40・生野)、藤内忠憲(昭40・阿倍野)、小田、本田善造(昭42・甲南)、吉村賢一(昭42・市西宮)、黒田望宏(昭43・追手門)及び平井保匡(昭43・甲南)の7名がこの選抜チームに選ばれた。平井は当時の連盟記録が散逸しているため確認はできないが、リーグ戦において通算20余勝を挙げ、ノーヒット・ノーランを達成した速球投手であった。
伊藤(北川)淳蔵(昭43・桃山学院)は長打力のある外野手で、投手も兼ねた。卒業後は社会人野
球の「西川物産」でプレーした。主務の伊藤新一(昭43・育英)は連盟、体育会、OB会等との連絡、調整や日常の練習グランドの確保に努め、部活動を円滑にした。また、卒業後も長年に亘りOB会の役員を務めた。
昭和43年5月、昭和38年から第1期工事に着工していた「広野グランド」(神戸市西区神出町古神字浦山)の全施設が完成した。野球部は完成前の昭和40年から広野の野球場、簡易合宿所などを使用して主に夏季合宿練習を行っていたが、以降、夏季合宿練習は広野で行うのが慣例となり、この地は秋のシーズンに向けての鍛錬の場となった。
昭和43年、連盟は大阪体育、大阪産業、関西外国語の3大学の加盟を機に、一・二部リーグ制を採用した。
同年秋季の7回目の優勝は難産だった。事実上の優勝決定戦である対大阪学院大学2回戦を日没コールドゲームで制し、一度は優勝を決めたが、翌日、この勝利は審判団の野球規則4.11の適用の誤りであったことが判明し、2回戦は日没引き分けとなり、優勝は取り消された。その後3回戦に敗れ、ようやく4回戦に勝利して勝点5、10勝2敗2引分で優勝を決定した。優勝には横山隆人(昭45・甲南)、小西二郎(昭45・県西宮)、梶岡憲義(昭45・甲南)、伊藤良純(昭45・星陵)ら3年生の活躍に負うところが多かった。結果的に、これが昭和時代最後の優勝となった。小西二郎は、昭和39年卒業の小西謙太郎の実弟で、技巧派の好投手で、当時の投手陣の層の薄さからリーグ戦のほぼ全試合に登板した。3大学リーグ首位決定戦においても神戸、立命館大学を相手に好投したが、味方打線の援護がなく連敗した。元阪神タイガースの投手であった梶岡忠義を父にもつ梶岡憲義は、父親に風貌のよく似た強打の外野手であった。
昭和45年、森の大学学長補佐就任による部長辞任により、経済学部の本山美彦が、昭和49年には本山に替わり法学部の藤田宏郎が部長に就任した。藤田は在任中に連盟理事長を務め、木下会長を補佐して連盟の運営にも司った。川畠明夫(昭46・春日丘)は部員の信頼の厚かった主務で、卒業後は平成年代初めにOB会の幹事長・副会長の要職を歴任し、その発展に貢献した。向井康郎(昭48・高槻)、安藤幸治(昭49・桜宮)は共に投手兼外野手として活躍し、卒業後は連盟審判委員・連盟理事・OB会役員などに就き、連盟・OB会の運営に寄与した。関口(友好)順子・塩川(山村)敬子(ともに
昭48・親和女)・吉井(花房)牧子(昭50・岸和田)は女子マネージャーの草分け的な存在で、意
欲的にその仕事に取り組み、吉井は卒業後もOB会役員として活躍した。
昭和48年秋季、関西外国語大学1回戦で、蓑田健二(昭49・市神港)がノーヒット・ノーランを達成した。
昭和49年春季、勝点1、3勝8敗の成績でリーグ加盟以来初の最下位となり、桃山学院大学との入替戦にも敗れて、初めて二部へ降格した。しかし、秋季の二部リーグは勝点4、8戦全勝で1位となり、追手門学院大学との入替戦を制して、直ちに一部へ復帰したが、創部20年目にして初めてのリーグ戦最下位・二部降格の最悪のシーズンとなった。
同年8月、連盟は創立20周年を記念して選抜チームを韓国へ派遣した。竹中和彦(昭50・三木)、小西新太郎(昭50・甲南)が選ばれてこの遠征に参加した。竹中は強打の外野手で選抜チームの主将に任命された。
Ⅲ 昭和低迷期・昭和50年代
昭和50年代に入り、部員の減少が顕著になった。毎年部員集めに苦労し、選手層の薄さが深刻となり、投手が野手を野手が投手を兼ねるなど、苦難の時代が始まった。昭和50年代の10年間(20季)のリーグ戦の成績は、3位が最高位で2回、4位が4回、5位が9回、最下位が5回で、勝率.342と低迷した。しかし、5回出場の入替戦では薄氷を踏む戦いながら全て勝利し、二部降格は辛うじて免れた。武田 昭(昭50・甲南)は、主務として主将を補佐して部員を統率する傍ら、連盟の業務にも従事した。田中清貴(昭52・三木)は、前年に部員の在籍が無かったため、昭和50・51年の2年間に亘って主将を務めた。卒業後は教職に就き、長年、高校野球の指導者として活躍した。
昭和53年、文学部の八亀師勝が部長に就任した。前任校の南山大学で野球部監督であった八亀は、自らグランドへ出向きノックバットを振って、直接部員の指導に当たり、学内では部長として「南グランド」及び「六甲アイランド総合体育施設野球場」の建設に参画した。一方連盟では常任理事、理事長、副会長の要職を歴任し、役員間の信望も厚く、連盟の基盤作りに尽力した。
昭和55年10月、神戸市東灘区田中町に「南グランド」が建設された。グランドは他の運動部と共同使用ではあったが、大学本校舎から徒歩約10分の位置にあり、これにより四半世紀に亘ったグランド難は幾らか解消された。
昭和57年、関西の大学野球界は大改革を行い、「関西学生」「関西六大学」「阪神」「近畿」及び「京
滋」の5連盟が並列する組織の『関西学生野球連合』に改編され、昭和37年から20年間に亘った『関
西大学野球連合』時代は幕を閉じた。
この時期、今北公一(昭55・今宮)、梶浦繁樹(昭55・北陽)、川島総一郎(昭55・報徳)、野水直哉(昭55・洲本)、字廻 肇(昭56・天理)、松山 寛(昭57・滝川)、高木明生(昭57・甲南)、小林一光(昭57・甲南)、中辻靖幸(昭59・今宮)、勇元隆治(昭60・柴島)などが活躍した。昭和55年卒業組は、粒ぞろいで今北は制球力のある好投手、梶浦、野水は巧打の内野手、川島も強打の外野手で、個々にはそれなりの活躍をしたが、残念ながらチームの成績には結び付かなかった。小林は昭和54年秋季の対大阪経済法科大学1回戦で、ノーヒット・ノーランを達成した技巧派の左腕投手。高木は強肩・強打の捕手。勇元は昭和58年春季リーグ戦のベストナインに選ばれた捕手。字廻、松山、中辻は堅実な内野手であった。
50年代の終わりの頃の東京遠征時に、旧制高校OBの口添えで、甲南野球人の大先輩で、鎌倉市在住の元プロ野球近鉄パールスの監督で、あの江川 卓投手(法政大学から読売巨人軍)の育ての親と言われた、藤田省三(大15・旧制中)に専門的な技術指導を受けた。氏の卓越した理論、分かりやすい
指導法には驚嘆した。
昭和59年、『甲南学園野球部OB会』は旧制高校、新制高校、大学の各OB会として、それぞれ個別に活動することとなり、大学は、『甲南大学硬式野球部OB会』(以下「OB会」と記す)の名称のもと会長に藤井 稔、幹事長に小田が推挙され、再出発した。会則も新たに制定され、活動が開始された。その後会長には、平成1年から吉見、平成6年から濱田、平成13年から中村良造(昭36・甲南)、平成17年から川畠へと引き継がれている。
Ⅳ いぜん続く低迷・昭和60年代から平成初期
昭和60年代に入っても、緒方栄一(昭62・甲南)、有水洋一(昭62・川西緑台)の好投手二人を擁しながらリーグ戦での低迷は続いた。
昭和61年、8年間部長を務めた八亀が退任し、理学部の平尾周平が7代目の部長に着任した。
昭和62年春季、長らく事実上空席となっていた監督に第31代主将であった谷口純司(昭62・和歌山桐蔭)が、卒業と同時に就任した。谷口は母校の事務職員として職務に精勤する傍ら、若さと情熱をもって精力的に部員を指導した。平尾は、若い谷口をカバーし、部を円滑に運営するために心を砕いた。谷口は、平成12年春季までの13年間余り監督を、平尾は平成8年秋までの11年間部長を務めた。
昭和61年9月、予てから建造が進んでいた『六甲アイランド総合体育施設』(神戸市東灘区向洋町
中)が完成した。施設内の「専用野球場」は、軟式野球部との共用ではあったが、これにより長年に亘
ってネックとなっていたグランド難は解消され、練習環境等は著しく改善された。
昭和62年、谷口純司新監督のもと、春季は2位、秋季は3位と好スタートを切った。大型内野手の坂本信昭(昭63・明石)、好守・好打の内野手宮本浩一(昭63・東灘)らが活躍した。
昭和63年春季は、よもやの最下位となり関西外国語大学との入替戦にもストレートで敗れ、2度目の二部降格となった。しかし、秋季の二部リーグには、慣習により本来秋季は出場しない4年生の中島孝治(平1・川西緑台)、藤木雅弘(平1・龍野)、松本英夫(平1・北須磨)、金子慶一(平2・甲南)らが全員出場し、彼らの活躍によって勝点5、10戦全勝で1位となり、桃山学院大学との入替戦にも勝利して、一部へ返り咲いた。中島は一部リーグで昭和62年度春・秋季の二度ベストナインに選ばれた制球力のある好投手で、藤木は強肩・強打の捕手、松本は攻守の内野手、金子は投手も兼ねる強打の外野手で、いずれも一部リーグにおいて活躍した好選手達であった。3年生の石井義朗(平2・甲南)、内匠達也(平2・龍野)は共に大型の選手で、石井は元阪急ブレーブスの石井 晶の子息で、父親譲りの
強打で一部復帰に貢献した。田邊陽子(平2・樟蔭)、京谷(福山)奈穂子(平4・親和女)は、女子マ
ネージャーとして主務を補佐し、部の業務に従事する傍ら、学生委員として連盟の運営に寄与した。廣川 寿(平4・松山北)は左腕の剛球投手で、入学早々の昭和63年春季リーグ戦から登板し、リーグ戦通算57試合登板(二部リーグを除く)の連盟記録(当時)をもち、平成1年春季の対天理大学2回戦では1試合16奪三振記録(当時)を達成した。また、平成3年には全日本学生選抜チームの第1次候補選手にも選ばれた。
平成1年、松葉晴彦(平5・上宮)、長廣秀也(平5・上宮)が入学した。大阪の強豪校で揉まれた両名は、共に4年間主軸打者として活躍し、信望も厚く、何事にも積極的に取り組み、部員の意識を改革した。高橋卓志(平6・三田)は誠実で責任感が強く、中心選手としてプレーする傍ら、連盟の学生委員や学生委員長をも務めた。
平成4年、入試制度が改革され、スポーツ推薦入試が実施された。受験資格は「①評定平均値の平均が3.2以上の者。②全国大会に出場又は地方大会でベスト8以上の成績を収めた高校のレギュラーであった者。又は③都道府県の選抜選手に選ばれた者。」というもので、この制度で入学した1期生が、加藤晋也(平8・星林)、木内規晶(平8・東海大仰星)、川那辺幸一郎(平8・北嵯峨)の3名で、野球部を低迷から脱却させる起爆剤となることが、期待された。加藤は平成6年春季、7年秋季の2度リーグ戦の最優秀選手に選ばれた強肩の捕手で、そのリードには定評があった。木内は在学中、首位打者を2度獲得、通算安打107本及び1試合6打点の連盟記録(当時)をもつ左打の攻守走三拍子揃った内野手で、平成7年度の全日本学生野球協会表彰選手に選出され、卒業後は社会人野球の「日本アイ・ビー・エム野洲」でプレーした。
Ⅴ 50季ぶりの優勝、大学選手権初出場・平成5年から
平成5年秋季、前年からチーム力は上昇気配にあったが、実に50季(25年)ぶりに谷口の好指揮、主将白石竜次(平7・三田)の統率力によって8回目の優勝を果たした。最優秀選手に輝いた青木隆行(平7・防府)は、安定した左腕投手で、このシーズン9試合に先発し、7勝1敗防御率1.41の成績を収め、特に優勝を左右する対大阪体育大学2・3回戦に好投して優勝の原動力となった。青木は明治神宮大会関西地区代表決定戦でも、関西NO1の佛教大学丸尾投手を相手に延長12回を投げあったが、打線の援護がなく力尽きた。
平成5年12月1日、連盟創設時から40年近くに亘って会長職にあった木下 丹が逝去した。
平成6年、請われて2代目会長に中西典彦甲南大学長(当時)が就任した。この間、連盟は平成5年
春季から指名打者制を採用し、平成6年秋季には加盟大学が15校になったのを契機として、三部リーグを発足させた。
同年、前年春の選抜高校野球大会で優勝した、上宮高校の吉川晃司(平10・上宮)、松久直規(平10・上宮)のバッテリーが入学した。
同年の春季リーグ戦も連覇した。勝点5、10勝3敗の完全優勝で、念願の全日本大学野球選手権大会に初出場した。連覇には、細見 勝(平7・北嵯峨)、木内、一色 寛(平8・牧野)、加藤、荻野大輔(平9・平安)、座喜味大河(平9・比叡山)、明松英俊(平10・星林)、大橋成行(平10・明石)、松久らが活躍した。細見はこのシーズン首位打者を獲得し、外野手として広範囲な守備で味方の危機を再三救った。1年生ながら明松、大橋の両投手は青木を助け、松久は打撃で優勝に貢献した。選手権大会では1回戦で熊本工業大学と対戦し、接戦のすえ5対6で敗れ初陣を飾れなかった。
平成6年秋季、対天理大学2回戦は、没収試合になり不戦敗となった。万博球場に至るまでの名神高速道路が大渋滞で、一部の選手及び用具の不着が理由だった。結果的には、この1敗が影響して3連覇を逸した。
平成7年1月17日の阪神大震災で、甲南大学は16名の学生の犠牲者と壊滅的な施設破壊を受けた。
一般入試は2月下旬に、入学式、開講も4月下旬に延期された。幸いにして、部員、OBGに死亡、負傷など人的被害はなかったが、六甲アイランド体育施設周辺の被害は甚大で、交通アクセスの問題などから部員全員が揃って練習を開始出来たのは、3月も半ばを過ぎた頃だった。学習院・成蹊大学野球部から震災見舞金を、また、同志社・追手門学院大学野球部には練習場の提供を受けるなど、各方面から多大のご支援をいただいた。
平成7年の春季リーグ戦は、例年どおり4月上旬に開幕したが、震災で多大の影響を受けた本学は、連盟の計らいで4月半ばから出場した。しかし、調整の不足は否めず3位に甘んじた。この年、谷口監督の要請で、第32代目主将の坂本信昭がコーチに就任した。
平成7年秋季、10回目の優勝には加藤、荻野、明松が貢献した。荻野は首位打者を獲得し、明松は投手で4勝1敗、登板しない日は3番打者として出場し、3割近い打率を残した。
平成8年秋季、第41代目主将の座喜味は、平成5年春季から4年間8季に亘り、公式戦全試合に出場した。リーグ戦の通算成績は、試合数103、打数387安打117打率3割2厘、盗塁87で通算最多安打及び盗塁数の連盟記録(当時)を保持し、4度ベストナインに選ばれ、平成8年度の全日本学生野球協会表彰選手に選出された。卒業後は社会人野球の「三菱自動車岡崎」でプレーしている。副将の荻野も4年間8季の公式戦のほぼ全試合に出場し、首位打者1度、ベストナインに4度選ばれた。卒業後は、社会人野球の「新日鐵名古屋」でプレーした。また、このシーズン1年生の的場裕之(平11・尼崎北)が、1季最多盗塁18個の連盟記録(当時)を樹立した。
平成8年11月23日、『甲南大学硬式野球部創部40周年記念式典』が100名を越えるOBG・野球部員の出席のもとに、神戸ベイシェラトンホテルで盛大に挙行された。
平成9年、平尾部長の退任により経済学部の永廣 顕が部長に就任した。また、坂本が勤務の都合で辞任したのに替わり、半田岳英(平3・甲南)が、コーチとして谷口監督を補佐することになった。
平成9年秋季、平成6年春季から4年間8季に亘って主力投手として活躍した明松がベストナインの
投手に選ばれ、同時に通算最多勝利34勝の連盟記録(当時)を達成した。また、平成9年度の全日本大学野球協会表彰選手に、本学から木内、座喜味に続いて3年連続で選ばれ、卒業後は社会人野球の「小西酒造」を経て、「トヨタ自動車」でプレーした。この間、女子マネージャーも河村(中野)幸子(平7・姫路東)、河合(小林)章子(平7・東播磨)、大島さおり(平8・津西)、下田平恭子(平8・明石北)、岡本(河崎)愛(平9・市姫路)と続き、部内では主務を補佐し、連盟では学生委員としてその運営に貢献した。河村は卒業後も平成12年からOB会の役員として、会報「甲球」の編集に携わっている。
Ⅵ 平成低迷期・二部降格・平成10年以降
平成10年春季、明松、大橋両投手の卒業で投手陣に軸がなくなり、リーグ戦での登板経験に乏しい投手陣が崩壊し、最下位となり、関西外国語大学との入替戦にも敗れ、16季ぶりで三度目の二部降格となった。秋季の二部リーグでは、危なげなく1位となったが、入替戦で再び関西外国語大学に敗れ、一部復帰はならなかった。
平成11年春季、田原洋之(平11・比叡山)が卒業と同時に母校事務局に奉職し、コーチに就任した。
同年春季の二部リーグでは、最終節の対摂南大学戦に勝利し、逆転して辛うじて1位となった。入替戦の関西外国語大学戦も4回戦に縺れ込む大接戦を制して、2季ぶりで一部へ返り咲いた。しかし、秋
季のリーグ戦は、他の一部5校との実力の差は如何ともし難く、勝点0、2勝10敗の成績で最下位となったが、入替戦の追手門学院大学戦では、山本朋之(平15・大阪学院)が2勝を挙げ、一部に残留
した。的場は中軸打者として孤軍奮闘し、3度目のベストナインに選ばれた。
平成12年春季も2季連続して最下位となったが、入替戦では再度追手門学院大学を退けて、一部に踏み止まった。
平成12年6月、谷口監督が、近年のリーグ戦での不成績等により辞任した。谷口監督辞任を受けて、同時に永廣部長、半田・田原両コーチからも辞意の表明があった。
平成12年秋季、部長に経営学部の大塚晴之が、監督に30数年ぶりで二度目の田中博人が、コーチに梶原 徹(昭49・宝塚)が就任した。田中の監督としての手腕に多大の期待が寄せられた。秋季リーグ戦は5位の成績に終わった。大本亮介(平15・今治西)が首位打者を獲得し、ベストナインの捕手に選ばれた。大本は翌平成13年春季にも、2季連続で首位打者を獲得した。
平成13年4月、OB会は空席になっていた会長に中村良造を選出し、役員(幹事)のメンバーも一新して、平成17年の創部50周年までに財政基盤を確立することを最大目標として、活動することになった。
同年秋季、横山憲一(平16・大阪学院)が首位打者となり、チームの成績はBクラスを低迷したが、首位打者は3季連続で本学の選手が獲得した。山元洋平(平14・比叡山)は、この年春・秋季のリーグ戦で、故障者の多い投手陣の中にあって、先発・中継ぎ・押さえとしてほとんどの試合に登板し、孤軍奮闘してチームを二部降格の危機から救った。
平成14年3月、OB会は当該年度のリーグ戦など公式戦において特に活躍した部員及び部の運営等に貢献した部員を表彰する制度を制定し、第1回(平成13年度)の表彰を行った。これによる各年度の表彰部員は、次のとおり。 (平成18年度以降は廃止)
年度 |
最優秀部員 |
優秀部員 |
最優秀新人部員 |
特別賞 |
平成13年度 | 大本 亮介③ |
山元 洋平④ |
三木 勇樹① |
該当者なし |
14年度 |
該当者なし |
該当者なし |
田中 章裕① |
田中 利枝 |
15年度 |
該当者なし |
平岡 祐② 黒野 秀晃② |
木嶋 一博① |
本丸 裕之④ |
16年度 |
川島 丈典③ | 平岡 祐③ |
石丸慎太郎② |
森 匡史③ |
17年度 |
|
佐藤 正幸④ |
平成14年春季、田中の監督4季目にあたり、山本朋之、三光院政雄(平16・高松一)、大芝洋之
(平17・宝塚北)、村上拓也(平17・今治西)の投手陣、大本、横山、本丸裕之(平16・智辯和
歌山)などの打撃陣の充実で、躍進が期待されたシーズンであったが、期待に反して投手陣に故障者が続出したため、投手は入学早々の田中章裕(智辯和歌山)一人に頼る状態で、リーグ戦は最下位となり、入替戦でも関西外国語大学に1勝2敗で敗れ、5季ぶり四度目の二部降格となった。
同年秋季、田中の持病の腰痛悪化による、入院が長期化し、このシーズンに監督として指揮を執ることが困難となったため、OB会はコーチの梶原に監督代行としてこのシーズンの間、指揮を執ることを要請した。しかし、一部復帰を目標に戦ったシーズンではあったが、打撃陣の不振もあり、第3節の対神戸国際大学戦の勝点を落としたため、二部リーグ2位の成績に終わった。
同年10月、平成15年春季リーグ戦終了時で、任期が満了する田中の後任を選考する「次期監督候
補者選考委員会」(向井康郎委員長)が発足し、OB会は同年12月、同委員会から推薦のあった梶原コーチを、平成15年3月の「OB会総会」の議を経て次期監督候補者に決定した。
同年12月、OB会は、OB会や野球部の情報をOBG・部員・部員の父母に提供し、より一層OB会活動に関心を持ち・理解を深めて貰う一助になることを目的として野球部・OB会報『甲球』創刊号を発刊したが、諸般の事情により第3号(平成17年3月)で廃止された。
平成15年春季、部長が大塚から同じ経営学部の三上和彦に替わり、田中が監督に復帰して任期最後のシーズンの指揮を執った。戦力的にも一部復帰が期待されたが、投手陣に故障者が多く、二部リーグ戦は辛うじて首位決定戦のすえ神戸国際大学を降して1位となったが、一・二部入替戦で大阪経済法科大学に敗れ、二部リーグに3季連続して残留する結果となった。
平成15年8月、「甲南大学体育会50周年記念式典」において、座喜味大河が卒業後も社会人野球でプレーし、甲南大学の名を広めたとして『体育会特別功労賞』を受賞した。
平成15年秋季、梶原 徹が監督に就任した。新監督の梶原と学生コーチに専念した4年次の本丸の好采配、大芝、田中の投手陣、平岡 祐(今治西)、黒野秀晃(報徳)の野手陣の活躍により、二部で6度目の1位となったが、一・二部入替戦では2季連続して大阪経済法科大学に敗れ、入替戦の壁を破ることが出来なかった。
平成16年春季、梶原監督の堅実な采配、大芝、木嶋一博(市尼崎)の投手、川島丈典(滝川二)、黒野、青山和雅(岡山学芸館)ら3年次の野手の活躍で、二部で7度目の1位となった。一・二部入替戦は3季連続して大阪経済法科大学との対戦となり、三度目の正直で同校を破り、4季ぶりで一部リーグ復帰を果たした。
同年4月、伊藤良純(昭45・星陵)の子息伊藤貴博(長田)が入部したことにより、創部49年目にして初めて父子での部在籍者が誕生した。
同年秋季、恒例の夏季合宿を行わず、オープン戦中心の実戦練習に替えて臨んだ4季ぶりの一部リーグ戦は、開幕から投手陣の不調と内野陣の守備の乱れが原因で、6連敗のスタートとなったが、終盤の天理大学・帝塚山大学戦を打撃陣の奮起で4連勝し、辛うじて最下位は免れた。
平成17年1月、大芝洋之が新たに結成された四国独立リーグのトライアウト(選手選考会)に合格し、本学OBのプロ第1号となった。
Ⅶ 定着できぬ一部リーグ・創部51年目以降
平成17年2月13日、『甲南大学硬式野球部創部50周年記念式典』が、来賓・100名を越えるOBG・野球部員の出席のもとに、神戸ベイシェラトンホテルで盛大に挙行された。
平成17年春季、51年目のシーズンは、初めての10戦全敗の屈辱的な成績に終わり、一・二部入替戦も帝塚山大学に1勝2敗で破れ、9回目の二部転落となった。投手陣の柱である木嶋の故障、シーズンを通して内野陣が固定できなかったことなどが、その原因であった。
同年、OB会は2期会長を務めた中村良造の任期満了に伴い、会長に川畠明夫を選出した。
平成17年12月3日、『阪神大学野球連盟創立50周年記念式典・祝賀会』が、来賓・役員・加盟大学OB等出席のもとに、大阪リーガロイヤルホテルで盛大に挙行された。
平成18年12月、横山憲一(平16・大阪学院・三菱重工神戸)が、ドーハで開催されたアジア大会の全日本の一員に選出され、主に5番打者として日本2位の原動力となった。
平成19年春季、監督に6年ぶりで二度目の谷口純司が、その手腕と一部復帰の多大の期待を寄せられて再就任し、田原洋之(平11・比叡山)、中村圭吾(平8・北海道酪農大卒)がコーチとして谷口を補佐することになった。
平成19年春季のリーグ戦は、谷口の好采配、倉谷聖人(平21・瀧川第二)を軸とする投手陣、1年次の増井佑哉(瀧川第二)石崎友也(川之江)を中心とした打撃陣の活躍で、勝点5。10勝2引分の好成績で通算8回目の二部1位となった。しかし、一・二部入替戦で帝塚山大学に1勝2敗で破れ、一部復帰はならなかった。
同年秋季のリーグ戦も、倉谷、畠山進之介(平22・甲南)の2投手の活躍で、10回目の二部1位となったが、一・二部入替戦で天理大学に破れ、一部復帰はならなかった。
平成19年11月、横山憲一(平16・大阪学院・三菱重工神戸)が、台湾で開催された第37回IBAFW杯日本代表の一員に選出された。
平成20年春季のリーグ戦も二部で11度目の1位となり、一・二部入替戦は2季連続して天理大学
と対戦し、2勝1敗で同校を破り、7季ぶりで一部リーグ復帰を果たした。
平成20年9月、座喜味大河(平9・比叡山。三菱自動車岡崎)が第79回都市対抗野球大会に春日井市の王子製紙(東海第6代表)の補強選手として、全試合2番三塁手で出場し、同チームを準優勝に導いた活躍(打率0.364、22-8)が評価されて、「久慈賞」(敢闘賞)を受賞した。
同年秋季の7季ぶりの一部リーグは、投手力・打力・守備力共に一部リーグのレベルに達せず、6位、二度目の10戦全敗(一部リーグ20連敗)の屈辱的な成績に終わった。特に、倉谷以外は通用しない脆弱な投手陣、不安定な守備力の内野陣などが、その原因であった。
一・二部入替戦は姫路獨協大学との対戦となり、接戦のすえ1勝2敗で破れ、10回目の二部降格と
なった。同年10月、部員の不祥事により伊豫田隆俊野球部長と谷口監督及び田原・中村両コーチの3名が辞任した。
平成21年春季、暫定的な措置として、部長(代行)に経済学部の岡田元浩が学生部長と兼任で就任し、梶原が監督に復帰して指揮を執り、村上拓也(平17・今治西)がコーチとして梶原を助けた。
同年春季から、二・三部に限り、リーグ戦の方式が2回戦・point制に改定された。(勝3p、引分1p、負0p)通産27回目出場の一・二部入替戦は、帝塚山大学との3度目の対戦となったが、2連敗とストレートで敗れ、一部復帰は叶わなかった。
同年、11月、OBの座喜味大河が、社会人野球三菱自動車岡崎の監督に就任した。
梶原監督の再指揮のシーズンは、最終節に天理大に敗れ、惜しくも2位に終わった。上迫翔太(4年・高松商)藤原裕季(4年・明石南)等が就職活動のため欠場したが、これに代わる入学早々の1年生濱本陽介(投手・市神港)山下智也(捕手・東海大仰星)神田 昇(内野手・洲本)福山 諒(内野手・福岡一)中安啓太(外野手・須磨学園)が活躍し、山下・福山の両名は二部のベストナインに選ばれた。
同年5月、新型インフルエンザの「流行警戒宣言」、感染拡大防止のための大学の休学(課外活動を含む)などの影響により、リーグ戦・入替戦の日程が大幅に変更され、リーグ戦の最終節は6月下旬に、入替戦は7月初旬にずれ込んだ。
同年6月、部長代行であった岡田元浩が、学生部長と兼任で部長に就任した。
同年8月、横山憲一(平16・大阪学院・三菱重工神戸)が、第25回BFAアジア野球選手権の日本代表に選ばれ、日本の4大会連続17回目の優勝に貢献し、同年9月には、第38回IBAFW杯の日本代表にも選ばれた。
同年9月、木嶋一博(平19・市尼崎・松山フェニックス)が、第34回全日本クラブ野球選手権で、準決勝での好投が評価されて「敢闘賞」を受賞した。
同年10月、「六甲アイランド野球場」が人工芝化(外野のみ)された。
同年秋季のリーグ戦では、「六甲アイランド野球場」の人工芝化工事のため、8月から練習場を転々としなければならない悪条件にも拘わらず、二部12回目の1位の成績を収めた。2年生の投手池田圭将(神戸西)、野手では3年生の中川順介(市西宮)、増井佑哉、石崎友哉、1年生の山下智也、首位打者の小松達也(瀧川)らが原動力となった。
通算27回目出場の一・二部入替戦は、帝塚山大学との3度目の対戦となったが、ストレートで破れ、一部復帰は叶わなかった。
同年11月、平成9年卒業の座喜味大河が、社会人野球部「三菱自動車岡崎」の監督に就任し、硬式野球部初の社会人野球部監督となった。
創部56年目にあたる、平成22年春季、主戦投手の池田圭将(神戸西)を故障で欠いたが、1年生の太田勝也(東洋大姫路)・2年生の三宅庸史(玉野光南)の両左腕投手の活躍で、二部で13度目の1位となった。
一・二部入替戦は、関西外国語大学と対戦、主戦投手の池田・中心打者の石崎を故障のため欠き、太田・三宅の両左腕投手が健闘したが、打線に力なく連敗した。
甲南大学硬式野球部の昭和30年から平成22年までの56年間(111季)の阪神リーグにおける成績は、下表のとおりである。
1.順位
所属 |
シーズン |
1位 |
2位 |
3位 |
4位 |
5位 |
6位 |
試合 |
勝 |
負 |
引分 |
勝率 |
一部 |
94 |
10 |
22 |
15 |
13 |
19 |
15 |
1.061 |
502 |
531 |
28 |
0.486 |
二部 |
17 |
13 |
3 |
1 |
|
|
|
186 |
149 |
33 |
4 |
0.819 |
2.大学別対戦成績
[一部での対戦成績] 50音順 |
[二部での対戦成績] |
||||||||||
大学名 |
試合 |
勝 |
負 |
分 |
勝率 |
大学名 |
試合 |
勝 |
負 |
分 |
勝率 |
追手門学院 |
37 |
24 |
13 |
|
.649 |
追手門学院 |
34 |
32 |
2 |
|
.941 |
大阪学院 |
57 |
13 |
41 |
3 |
.241. |
|
|
|
|
|
|
大阪経済法科 |
110 |
49 |
56 |
5 |
.467 |
大阪経済法科 |
8 |
5 |
3 |
|
.625 |
大阪産業 |
136 |
52 |
80 |
4 |
.394 |
|
|
|
|
|
|
大阪商業 |
63 |
20 |
41 |
2 |
.328 |
|
|
|
|
|
|
大阪体育 |
163 |
46 |
112 |
5 |
.291 |
|
|
|
|
|
|
大阪電気通信 |
29 |
26 |
3 |
|
.897 |
大阪電気通信 |
4 |
4 |
|
|
1.000 |
関西外国語 |
27 |
16 |
11 |
|
.593 |
関西外国語 |
2 |
2 |
|
|
1.000 |
関西国際 |
4 |
|
4 |
|
.000 |
|
|
|
|
|
|
神戸学院 |
22 |
6 |
16 |
|
.273 |
|
|
|
|
|
|
*神戸商船 |
54 |
54 |
|
|
1.000 |
*神戸商船 |
4 |
4 |
|
|
1.000 |
摂南 |
4 |
4 |
|
|
1.000 |
摂南 |
21 |
18 |
2 |
1 |
.857 |
帝塚山 |
4 |
2 |
2 |
|
.500 |
帝塚山 |
9 |
6 |
3 |
|
.667 |
天理 |
215 |
113 |
98 |
4 |
.536 |
天理 |
2 |
|
2 |
|
.000 |
姫路獨協 |
25 |
15 |
10 |
|
.600 |
姫路獨協 |
24 |
15 |
9 |
|
.625 |
桃山学院 |
111 |
62 |
44 |
5 |
.585 |
桃山学院 |
29 |
24 |
2 |
3 |
.923 |
|
|
|
|
|
|
神戸国際 |
21 |
15 |
6 |
|
.714 |
|
|
|
|
|
|
関西福祉 |
2 |
2 |
|
1.000 |
|
|
|
|
|
|
|
流通科学 |
26 |
22 |
4 |
|
.846 |
計 |
1061 |
502 |
531 |
28 |
.486 |
計 |
186 |
149 |
33 |
4 |
.818 |
3.入替戦
A.入替戦出場 | 28回 (14勝 15敗) 一部6位で 15回 (9勝 6敗) 二部1位で 13回 (5勝 9敗) |
---|---|
B.結 果 | 一部残留 9回 二部降格 6回 一部復帰 5回 二部残留 8回 |
C.入替戦での対戦成績 50音順
大学名 | 入替戦 試合 | 勝 | 負 | 分 | 勝率 |
追手門学院 | 5-0 12 | 10 | 2 | 0.833 | |
大阪経済法科 | 1-2 8 | 4 | 4 | 0.500 | |
大阪産業 | 1-0 2 | 2 | 1.000 | ||
関西外国語 | 1-5 17 | 5 | 11 | 1 | 0.312 |
帝塚山 | 0-3 8 | 2 | 6 | 0.250 | |
天理 | 1-2 8 | 3 | 5 | 0.375 | |
姫路獨協 | 1ー1 6 | 3 | 3 | 0.500 | |
桃山学院 | 4-1 12 | 8 | 4 | 0.667 | |
計 | 14-14 73 | 37 | 35 | 1 | 0.513 |
一方、創部時の昭和30年から行われてきた成蹊大学、昭和39年から正式に参加した学習院大学との定期戦は、一部勝敗が不明な年もあるが、おおむね成蹊大学には勝ち越し、学習院大学とはほぼ五分の対戦成績となっている。